元々は、アナログ・アルバム、所謂レコード盤として1972年にリリースされたアルバムが改めて、1991年にCDとして発売されたのがこのアルバム。
ジャケットの色調から「ブラウン・ギャビー」「ザ・ブラウン・アルバム」などとも呼ばれる歴史的1枚。
1946年に26歳で、初めてレコーディングしたのが本作1曲目の「ヒイラヴェ」。
オリジナルは、78回転のアナログ・レコードとしてアロハ・レコード・カンパニーからリリースされたが、これは、スラック・キー・ギターで演奏された初めてのハワイ音楽だった。
ちなみに、16曲目のよく聴く方のヴァージョンの「ヒイラヴェ」は1972年、51歳のときの演奏だ。
そして翌年の「フラ・メロディー」は、スラック・キー・ギターの初インスト・アルバムとなる。
ギャビーは1921年にホノルルのカカアコ地区で生まれた。本名は、チャールズ・カポノ・カハハヴァイJr. 後に養子に出されフィリップ・クニア・パヒヌイとなる。
彼の家庭は貧しく、ギャビーは新聞配達や靴磨きで家計を助けていたが、程なく、スティール・ギターをマスターしてバーなどで演奏しはじめた。
意外なことに、スラック・キー・ギターをマスターしたのは、もう少し後のことだったらしい。
17歳で結婚し、4人の娘と6人の息子たちを授かった。その息子たちのうち4人(後に、パヒヌイ・ブラザーズとして活動するブラ、シリル、マーティンと、最初の2枚だけに参加したフィリップ)と友人のリーランド・”アッタ”・アイザックス、マニュエル・”ジョー・ギャング”・クパフを「ギャビー・バンド」と呼び、後のソロ活動を支えた。
ワイマナロに引っ越すと、その家は多くのミュージシャンたちにとって人気の「別荘」となり、毎週末にその庭で繰り広げられるジャム・セッションはカニカピラ伝説として語り継がれている。
70年代になってハワイアン・ルネッサンス活動が始まるとギャビーはとても重要な役割を果たすことになる。
1960年代に、「サンズ・オヴ・ハワイ」に参加し、エディ・カマエのバックアップをうけて、ギャビーがフィーチャーされた3枚のアルバムを発表した後、72年になると「ギャビーバンド」と呼ばれたバックバンドを従えて、4枚のアルバムを制作し、相次いで発表してゆく。
この一連の活動は、ハワイアン固有の文化に回帰しようとするハワイアン・ルネッサンス活動の象徴的な活動の一つとみなされたのだった。
ギャビーがソロになってからの作品群
1972年 ギャビー(本作)
1973年 ラビット・アイランド・ミュージック・フェスティヴァル
1975年 ギャビー・パヒヌイ・ハワイアン・バンド、Vol.1
1976年 ギャビー・パヒヌイ・ハワイアン・バンド、Vol.2
しかし、1980年に59歳で心臓発作のために亡くなってしまった。
若い頃から、続けていた酒と煙草の習慣、そして、音楽だけでは食べられなかったためにホノルルC&Cの道路工事人夫をしていた時にうけた健康障害など、色々と体に負担が溜まっていたようだ。
ともあれ、フラ同然に「一子相伝」だったハワイの固有文化であるスラック・キー・ギターをレコードという形で、世に公開して、後世に残し、ライ・クーダーのサポートがあったとはいえ、世界的にハッパ・ハオレがハワイの音楽であるかの様な風潮のベクトルを修正し、全世界にハワイアン・ミュージックを正しく伝えた功績はとんでもなく大きいと思う。
閑話休題:ギャビーの愛称は、彼がギャバジン(ギャバーダイン)の生地で作られたパンツを履いていたから?
第1回のシアトル・スラック・キー・ギター・フェスティヴァルで、シリルが話した内容によると、若い頃、とあるバンドでスチールギターを弾いていたときの衣装がギャバジン(ギャバーダイン)・パンツだったからだとか、、、
日本でも略して「ギャバ」と呼ばれるらしいので、「ギャビー」かと、、、