Take My Lovin’ (1997, Mahana Island Music/Bandai Music)

「ジャワイアンの父」と呼ばれるブラダ・ウォルター。
正しくはBrother Walterだけど、あえて、Bruddah Waltah (“Walta”名義の作品もあったりする)。
シスター・ロビのSistahと同じハワイアン・ピジン・スタイルの表記。

それはともかく、1990年代にハワイアン・レゲエ(=ジャワイアン)というジャンルを定義し、発展させ、確立させた功労者の1人。

ブラダ・ウォルターは、(多分)1955年にハワイ島ヒロの近くにあるケアウカハという町で生まれたが、4歳のときにオアフ島に家族で引っ越し、ワイアナエで育つ。

ご多分に漏れず、彼の一家も家族揃って音楽好きで、幼い頃から兄弟揃ってウクレレを弾き、妹はフラを踊っていたようだ。周りの年上の男の子たちが、ギターを弾いてかわいい彼女を作っているのを見て、ギターも練習するようになったという。
そんな彼が、トラジスタ・ラジオから流れてくるロックンロールなどの中でも夢中になったのは、エルトン・ジョン、CCR、ビージーズ、そして、ビートルズだったというが、彼が24歳のときに、結婚してニュージーランドへ引っ越した妹から一本のカセットテープが送られてきたという。それが、当時、人気が出始めたボブ・マーレーのものだったのだが、最初聞いたときはどの曲も同じように聞こえて、あまりピンとこなかったという。しかし、後に、ボブ・マーレーのワイキキ・シェルでのライブを実際に観て、大きな衝撃を受け、他の兄弟とウッドベース、ギター、ウクレレという編成で、それまでのハワイの音楽にはなかった新しいスタイルを模索し始め、ハワイのリスナーたちに受け入れられるハワイアン・レゲエというスタイルにたどり着いた。

グループでデビュー早々、マネージャーが射殺されたり、アルバム・プロデューサーがコカインで逮捕されたりと、彼のミュージシャン人生は決して順調に滑り出したものではなかったようだが、その後、ソロとしてデビューしマイペースにミュージシャンのキャリアを築き上げている。現在はハワイ島ヒロ在住。Island Afternoonは彼のサポートバンドだが、毎晩どこかで演奏してるため、目が覚めて活動を始めるのがいつも午後になることから命名されたとか。

この記事冒頭に「ジャワイアンの父」と書いたが、ウォルターは、ウェブマガジン”Ke Ola”のインタビューの中で「僕が作り上げてきたのはジャワイアンではなく、ハワイアン・レゲエなのだ。それは、僕がハワイアンだから。」と明確に答えている。これからは「ハワイアン・レゲエの父」と呼んであげよう。

このジャケ写がオリジナルのもの。上のものはニック加藤氏の写真を使用した日本盤の別ジャケ。