ウクレレ界の生けるレジェンド、トロイ・フェルナンデスについては、以前、カアウ・クレーター・ボーイズの際に、簡単に紹介したが、ここで改めてご紹介。
トロイの高速ピッキングと革新的なプレイ・スタイルは、90年代のウクレレ・ルネッサンスを生み出すのに大きく貢献することになったが、彼がウクレレを始めたのは、ほとんどのハワイの子供たちと同じく、小学校の時だった。
ウクレレマスターのピーター・ムーンのようなミュージシャンにインスピレーションを受けて、トロイのスキルはすぐに周囲の友人たちを追い抜いた。 13歳のとき、トロイは地元パロロ・ハウジングの仲間であるチノ・モンテロとネイサン・ナヒヌと最初のグループ「Us」(「アス」なのか「ユース」なのか、発音が不明)を結成すると、すぐにホノルルでのヘレン・レディのコンサートのオープニングを務めることとなる。
トロイ、チノ、ネイサンの3人は、高校時代も「Us」、「アヌヘア」、「パロロ」と、名前を変えつつも一緒に演奏し続けつつ、トロイは仲間のサーファー、ジョン・ヴァレスとは「ジョンとトロイ」として、また地元の幼馴染、アーニー・クルーズJr.ともパフォーマンスしていた。 カイマナ・ビーチに面した会員制レストラン、エルクス・ロッジでのレギュラーのアーニーとのギグが、2人で6か月間日本をツアーするきっかけとなり、トロイは、さらに6か月間グアムをツアーすることとなる。ようやく長い旅からハワイに帰島すると、再び、ネイサンとチノと「バックヤード・オハナ」として活動を再開した。
数年後、トロイは、アーニー・クルーズJr.と、グループ名を「ET」(Earnie, Troyの頭文字)として、ワイキキのパブ、ムース・マクギリカディーズでレギュラーのショーを始めたことで、このあと7年間に渡ってアイランド・ミュージックのトップ・グループとなるカアウ・クレーター・ボーイズとしての活動が始まる。
2人は、ウクレレの師でもあるロイ・サクマのプロデュースのもと、クリエイティブなアルバムを次々とリリースする。
1994年の「オン・ファイア」は、ナ・ホク・ハノハノ・アワードの「ベスト・コンテンポラリー・アルバム・オブ・ジ・イヤー」を獲得し、大ヒット曲「オピヒ・マン」は、作曲者のクレイグ・カネヘレに「ソング・オブ・ジ・イヤー」をもたらした。
トロイはまた、チノとネイサンと組んで、「パロロ」名義で2枚のアルバムもリリースした。
カアウ・クレイター・ボーイは多くのファンに惜しまれつつ、その活動の幕を下ろすことになるが、トロイはその後も精力的に音楽活動を続ける。自ら立ち上げたレコード・レーベルで新しいグループをいくつかプロデュースして成功させたり、彼自身のソロ・プロジェクト「サーファー・フロム・パロロ」、グループ・プロジェクト「カイザー・サーフ・クルー」、人気のアイランド・エンターテイナーとトロイ自身をフィーチャーしたコンピレーション「コラボレーション:トロイ・フェルナンデス アンド フレンズ」をリリースし、 自らが指導するウクレレ・スタジオもオープンさせている。
かつて、オータサンがロイ・サクマを指導し、ピーター・ムーンに刺激を受け、ロイのもとで腕を磨いたトロイが、ジェイクというフォロワーを成長させ、ジェイクに憧れたクリス・フチガミやカレイ・ガミオのような若い世代に面々とウクレレの文化が継承されている。アイランド・ミュージックの前途は明るい。