Romantic Story 11:30 p.m.(1991, Vap Inc.)

コンテンポラリー・ハワイアンを代表するバンド、カラパナの中心的人物であり、卓越したメロディ・センスの持ち主でありながら1999年、43歳という若さでこの世を去った孤高の天才マッキー・フェアリー。

マッキー・フェアリーは1955年8月13日、ホノルルの生まれ。
本名はブライアン・マッキー・フェアリーで、ハワイ、チャイニーズ、フィリピン、イギリス、フレンチ、カナディアン、インディアンといった多様な血が流れている。
幼い頃からウクレレやギター等をプレイするようになり、クロウズ、モーオレロといった、いろいろなグループで活動し、その間に知り合ったマラニ・ビリュー、D.J.プラット、カーク・トンプソンと1972年、カラパナを結成。
そして1975年に発表したアルバム「Kalapana 1(ワイキキの青い空)」で鮮烈なデビューを飾り、翌1976年には「Kalapana 2(ワイキキの熱い砂)」で、その評価を確かなものにする。
多くの洋楽ファン、AORフリークを虜にし、ハワイ・ファンのみならず、リスナー層を大きく拡大した名曲「ジュリエット」を作曲し、歌っていたのがマッキー・フェアリーだった。

初期のカラパナにおいて、ロコ・テイストを比較的残したマラニ、都会的なメロディーが特徴のマッキーと、ツイン・ヴォーカルの対比も大きな人気の要素であったが、その2ndアルバム発表後にマッキーは突然グループを脱退。自らのグループ:マッキー・フェアリー・バンドを率いて1978年に「マッキー・フェアリー・バンド」、79年に「フロム・ザ・ハートと2枚のアルバムを立て続けにリリース。
この時、マッキーは、フリー・ソウル的な感覚を上手く打ち出し、それまでのハワイアン・ポップスとはひと味違う、マッキーならではの音楽性を確立していったが、一方では、桑名正博の妹、桑名晴子のデビューアルバム「ミリオン・スターズ」のハワイ・サイド(もう片面は、ビル・ペインプロデュースのL.A.サイドだった)のプロデュースをするなど、ハワイの枠を超えて活動の枠も広めていた。

その後、LAで活動していたモーリス・ベガ&ケンジ・サノと出会い、彼らのバンド「シャイン」に参加。
アルバムのディールを獲得すると同時にグループ名をマッキー・フェアリー&ザ・ナイト・ライフにチェンジ。
1983年にアルバム「マッキーフェアリー&ナイト・ライフ」をリリースし好評を博すも、その噂を聞きつけたプロモーターの提案でカラパナの再結成コンサートが実現。マッキーももちろんそこに参加したが、ナイト・ライフ自体は空中分解となってしまう。 
そして1984年、マッキーは早くもソロ作「タッチ・センシティヴ」をリリースした後、1986年、マッキーのソロ活動のサポートメンバーだった日本人ベーシストのケンジと、新たにカークに代わるキーボーディストとしてゲイロードが加入し、カラパナは、翌1987年には日本のポニーキャニオンと契約を結ぶ。
そして、1991年に、5枚目のソロ・アルバムとして(多分、日本のみで)リリースされたのが、この「ロマンチック・ストーリー11:30pm」。サポート・ミュージシャンは、D.J.プラット、ゲイロード・ホロマリア、ケンジ・サノ、マラニ・ビリューといったカラパナのメンバーたちがガッチリと固めている。

この後も、順調にソロ活動を続けているかに見えたが、一方では、ドラッグ他様々な問題を常に抱えており、バンドのメンバーに迷惑を掛けることも少なくなかった。そして、奥さんへのDVなどで逮捕された1999年2月、自殺を図り、43歳という若さで帰らぬ人となってしまう。
マッキーの死は、残されたマラニ、D.J.、ケンジ、ゲイロードの4人にとって衝撃的なものだった。

追記すると、マラニ・ビリューは、2018年12月28日に死去し、現在、カラパナは、オリジナルメンバーはD.J.のみになってしまった。

メンツからして再結成時のカラパナのJuliette